「せめて日常会話」の間違いとは? 語学学習とは、どのようなプロセスで上達するのか?

 

ポリグロットに通われていない方々の多くに見受けられる、語学学習のプロセスについて、良くある誤解がありますので、解説させていただきます。

あなたは、せめて日常会話ぐらいと思っていませんか?

最近思うことのひとつは、ポリグロットに勉強に来てくれる方々の中に、
「語学学習とは会話ができることだ」、と思い込んでいる方がいるということです。

この考えは大きな間違いですので、この記事をお読みになられている方は、お考えを変えていただくことになるでしょう。

そもそも、語学学習とは、どのようなプロセスで上達していくのか?

それでは、そもそも語学学習とは、どのようなプロセスで上達していくのかご存知でしょうか?

 

具体的に言うと、外国語の学習は次のようなプロセスで上達していく、
というイメージをもっておられる方が多いのです。

貴方はどうですか?

簡単な会話>日常会話>やさしい講読>作文>高度な会話>高度な講読>翻訳 

話をややこしくしないために、ここでは西欧の主要言語を想定して話を進めますが、クセモノは「日常会話」です。

少なくとも英語の場合、「日常会話」は実はもっとも難しいスキルなのです。

では、何がやさしいかというと、強いていえば、(関連の専門知識があれば)ビジネス・トークが一番速く身につけられるスキルです。

これは、神田正典氏、野口悠紀雄教授、精神科医の和田英樹氏、コンサルタントの神田昌典氏、もほぼ同じことを主張しています。

その理由は頭のよい読者諸氏にはたぶんお分かりでしょうが、 

1)日常口語というのもは音声的に崩れやすいので聞き取りにくい。(あるまじめな外国人日本語学習者が「ぶっちゃけ」という単語が辞書にのってない、と自信をなくしていました)

2)日常口語というものは、個人差、方言さ、スピーチレベルなどの変種が多く、規範文法に照らして正確でないので理解しにくい。「はよ~こんかい!」は普通日本語学校では習わない。

3)日常口語というものは、そのとき、その場所でのはやり言葉というものがあるので、外国人には理解しにくい。ちょっと古いですが、この新宿近辺の女子高生の「ちょ~・ほわいと・きっく(=とてもしらける)」という言葉は日本人でも、おじさんの私にはわかりませんでした。

英語でも同じ問題が起こるのです。

ところが、ビジネスマンが製品の価格交渉をしたり、物理学の教授が国際会議で、同じ世界の人々と交わす会話は、正式な書き言葉に近く、発音も大事な単語はちゃんと発音(しようと)するし、文脈も明解なので、聞き取りやすく、コミュニケートしやすいのです。

 

小学校での英語教育の導入について 

この問題に関連して、今春導入されるという小学校での英語教育のことが思い出されます。

この教育方針に対する私の意見を言わせていただくと、素人の先生がカタコト英会話を教える前に、国語をもっときちんと教えて欲しい、また、より一般に言語というもの、コミュニケーションというものがどういうものなのかを教えて欲しいということです。心ある理系の先生方(例えば藤原正彦氏)も、最近日本の学力が落ちているのは、国語力低下のせいだ、と口をそろえて主張されています。

昨今の英語教育は、昔のように読み書き中心でなく、さかんに会話的な要素を盛り込もうとしていることが明らかです。しかし、これはまったく誤った方法です。一昔前から、「英語専門家の大半」を別として、他言語も研究している言語学者、一流のプロになった語学者、語学のよくできる研究者、そうした人々は、「所詮、読み書きがちゃんとできなければ、会話もちゃんとはできない」ということを言い続けているのです。具体的には次のような人々の著書を読んでみてください。(敬称略) アマゾンで簡単に著書が見つかりますから、興味がある方は検索してみてください。

 

  渡部昇一  藤原正彦  鈴木孝夫  野口悠紀雄  斉藤兆史  千野栄一    マークス寿子  桝添要一  鳥飼久美子(例外的に英語の通訳さんですが、実は彼女フランス語も堪能です)  など 

これだけまともな方々が正論を唱えていながら、文科省の役人+御用学者が作る教育指導要項が変わらないどころか改悪されているということは、「役人+御用学者」の能力不足か、業者に弱みを握られているかのどちらかでしょう。変なカリキュラムに振り回されている子供たちや現場の先生方こそいい面の皮です。 

翻訳のスキルと通訳のスキルの違いとは

さて、それでは、翻訳できるための能力と、通訳できるための能力はどこが異なるのでしょう。

翻訳は方法論が見についていれば短期間で身につく

翻訳は、方法論さえしっかり身についていれば、語彙や語形変化は覚えていなくても、解決までに時間的余裕があるので、短期間で身につくスキルです。むしろ、問題は学習者の日本語記述力や、世の学問全般にわたる教養の深さのほうが、はるかに問題です。少なくとも、仕事でお金を稼ぐための翻訳能力については、翻訳学校で学ぶほとんどの人がモノにならないのは、こちらの方の知識が貧しいからです。

対して、通訳は幅広い教養と、対人術を要する

これに対して、通訳は、その場で課題を解決しなければなりません。一定量の語彙や構文、文法能力を瞬時に発揮しなければならないので、それらの習得に何年ものハードな学習が求められます。通訳もお金を稼げるレベルとなりますと、幅広い教養の力がモノをいい、それにプラス対人術の巧みさ、ビジネスピープルとしての有能さがモノを言います。

つまり、翻訳の場合は、辞書・参考書をいくらでも参照してもよいし、納期内ならどんなに時間がかかっても構わないから100点満点を要求されるです。これに対し、通訳のほうは、辞書・参考書なしで瞬時に70点とればよい(もちろん100点が理想なのですが)仕事なのです。当然、求められる能力は正反対とも言えるものです。

 

通訳になりたい人に求められる学習法 

そこで、私は、通訳になりたいならば、ビジネス知識を充分身につけることが先である、それがあるならば、語学レベルの話としては次のように手順を踏むことをお勧めしています。(私の考えは、たぶん巷に数ある通訳養成学校のやっているメソッドとは相容れないように思います)

1)まずは、時事文や金融関係の文献、ビジネスドキュメントなどを正確に「翻訳」できるような勉強をする。この時点で、世界の時事問題やビジネスに関する理解力が問われるのです。ここをクリアしないと、お買い物の手伝い以上の通訳力はつかないでしょう。

2)ほぼ平行して、基礎作文(高校英語レベルの英語を書ける学習をする)>ビジネスレターなどを書ける勉強をする。この段階で、少しでも多くの語彙や語法を身につける必要があるのは言うまでもありません。

3)学習開始の時点でもし会話がほとんどできない状況であれば、これらをやる期間に、平行して(後からでもOKだが)次の学習をする。(これが終わらないうちに外人教師に会話を習っても時間と金をドブに捨てるようなものだと私は思っています)

 

  A)一定の会話用文例を相当量、暗記するほどに聞き込む(100回とか)

    これは、その言語のリズムやイントネーションなどの規範となるものを耳に慣らすという意味があります。英語などは、発音の正確さよりもイントネーションのほうが大事なぐらいです。

 

  B)膨大な量のパターンドリルを練習する。これは獲得した語彙を自由自在に操る

    融通性を身に着けるためです。頭で分かっているということと、それが瞬時に口について出てくるというのはまったく別物なのです。

 

以上のことを終えてから、「逐次通訳の練習」をすればぐんぐん上達するはずです。

通訳学校に通っている人は95%はすぐ脱落しますが、それは語彙も貧弱で文法も固まっていない(つまり高度な英語が組み立てられない)うちに学校に行くからです。

 

ヒアリングの練習も重要だが、やみくもにすべきではない

英語に関してはこのほか、ヒヤリングの練習も重要ですが、それはやみくもにするべきではありません。

 

その理由は、 

1)充分な語彙力がなければいくら耳がよくても「聞き取れない」からです。

2)英語は、ネイティブ、半ネイティブ、非ネイティブと世界中の人が使っている言語なので、発音のクセの変種が極めて多く、「聞き取れない」理由は必ずしも、学習者のせいでない場合もあります(むしろそのケースの方が多いぐらいです) それを自己判定できるには、専門の音声学の学習が必要です。

3)聞き取れない理由のもうひとつの理由は、英語式リエゾンのせいです。例えば、shut up! はなぜ「シャラップ」に聞こえるか、twenty ? はまぜ「トウェニィ」に聞こえるのか、pick him up! はんぜ「ピッカマップ」に聞こえるのか、こうしたくだけた会話における発音の崩れの法則を教えずに素人読みにカタカナで表してもむなしいことです。

なぜならこうした発音は100%いつもそう発音されるわけではないからです。その科学的なメカニズムを知らないと、いろいろな英語の変種に対応できないです。ここでもまた音声学の勉強が必要になってきます。(しかし、残念ながら日本の会話学校などでは、こうした問題をわかりやすく説明し指導できる教師が圧倒的に不足しています) 

 

語学で身を立てるためには

語学で身を立てようとなさる方は、自分の性格とかこれまでの学問的、職業的キャリアに照らして、どちらの道が向いているか一度お考えになるとよいでしょう。両刀使いはなかなか難しいです。ひとついえることは、翻訳力が優れた人が、ある程度のレベルの

通訳として機能することはあるが、その反対はほぼないということです。

よい日本語の訳文を書く、ということは、大変な修業を積まないとできないことなのです。通訳だけをなさっていると、ついつい日本語をはしょったり(訳抜けに近い場合も)、専門語彙の執拗なまでの調査作業を怠ってしまうようになるのです。

逆に翻訳が大好きな人は、通訳の現場で、日本語の訳語が気になったりして、全体の趣旨を聞き取り逃したりしてしまうのです。私の親友にイタリア語の通訳・翻訳をする女性がいるのですが、彼女はこの相異なる2つのスキルを見事にギヤチェンジできる人なのです。こういう例は極めてまれであると思ってください。

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